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普遍的価値の概要

緑茶生産の伝統と革新の歴史
日本の喫茶文化の形成に大きく寄与

 緑茶が中国から日本に伝えられて以降、京都府南部の山城地域では栽培・製法・加工において独自の工夫をこらし、緑茶を進化させてきました。その結果、「抹茶」「煎茶」「玉露」といった現代の日本茶を代表する茶を生み出しました。また、「抹茶」「煎茶」「玉露」を生産することにより、緑茶の喫茶文化の形成に寄与しました。

 「宇治茶生産の景観」は、宇治茶の栽培、加工、流通に関わる土地利用と施設、そして開発、改良が重ねられてきた宇治茶生産の歴史的変遷と多様な様相を示す構成要素が全て含まれているとともに、それらの構成要素が相互に関係を有しながら現在に至るまで受け継がれています。

抹茶の誕生

 12世紀後期までに、日本には中国から露地栽培の「抹茶」に湯を注いで飲む「点茶法」が伝えられ、14世紀中期までに、宇治はこれを受容し茶の生産がはじめられました。宇治において、茶園全体に葦や藁で覆いをかけ遮光する覆下栽培が始められ、世界に類を見ない「覆下茶園」が登場しました。

 また、京都からの豊富な菜種油粕、干鰯、下肥の供給により、良質な有機窒素質肥料が使用されました。これにより、露地栽培による渋みの強い「抹茶」とは異なり、覆下栽培による鮮やかな濃緑色をしたうまみの強い日本固有の「抹茶」が誕生しました。

 宇治茶を製造・販売する宇治茶師は、合組といわれるブレンドを行ない、京都をはじめとする茶人の好みに合わせた茶を作るなどの創意工夫を重ねました。

煎茶の誕生

 17世紀中期、宇治に萬福寺を開いた隠元などにより、揉み製の葉茶に湯を注いで飲む淹茶法が伝えられました。18世紀、宇治田原湯屋谷を中心とした茶農家で、蒸した茶の新芽を焙炉の上で手で揉み乾燥させる宇治製法(青製煎茶製法)が生み出され、色・香・味ともに優れた日本固有の「煎茶」が登場しました。この宇治製法は、19世紀後半までに宇治田原や宇治などの生産者によって全国に広められ、現在の「煎茶」の基本的な製法となっています。

玉露の誕生

 19世紀前期には、宇治で覆下栽培と宇治製法が結びつき、宇治茶における製茶技術の至高ともいうべき「玉露」が生み出されました。18世紀から19世紀にかけて、京都の文人や画家たちにより「煎茶」を用いた文人茶が流行すると、宇治製法による「煎茶」や「玉露」が盛んに使用されました。「煎茶」や「玉露」に関しても、本来農作物の加工品であるため、多様な茶の品質や味を一定に保つために、茶商によるブレンドの技術が発達しました。

日本茶生産の景観の類型と特徴的な土地利用

宇治市域中宇治、白川

宇治茶の歴史が、宇治川を中心として形成された風土の中に体現された文化的景観

 鎌倉時代から茶が栽培されており、16世紀後半より覆下栽培が開発され、白川の砂質土壌の地で伝統的な本簀及び寒冷紗による覆下茶園が営まれています。中宇治には、抹茶などの高級茶の製造と販売を独占した宇治茶師の屋敷をはじめとする茶問屋の町並みが残っています。

城陽市域上津屋

河川敷近くの集落内には茶工場建築物も点在し、自然(河川)と生業、生活が密接に関連する文化的景観

 現在「てん茶(抹茶)」の産地として知られます。19世紀以降、覆下栽培が木津川河川敷に拡大しましたが、本地区はその典型例です。河川敷の平坦な砂地を利用し、伝統的な本簀及び寒冷紗による覆下茶園で生産されるお茶は、松のような濃い緑をもつ独特のお茶となります。

京田辺市域飯岡

丘陵頂部には京都府南部の山城地域を代表する古墳が位置しているなど自然・歴史・生業の各側面で特徴的な要素を備えており、小規模ながら明瞭な文化的景観

 玉露産地として知られます。木津川左岸の独立丘陵に集落が立地し、丘陵周辺の低地には水田と畑地が、丘陵には集落と覆下栽培の茶園、そして竹林が広がっています。集落内には茶工場建造物も点在します。河川と平地、丘陵といった地形の違いをうまく利用した土地利用が展開されています。

宇治田原町域郷之口、湯屋谷、奥山田

自然条件を活かしつつ、生産と流通に独特の個性を持つ文化的景観

 宇治茶の煎茶生産史上の核をなす地域です。
奥山田、湯屋谷は、鷲峰山北麓の谷筋に展開する集落で、奥山田大福谷で鎌倉時代初期に茶栽培が始められたと言われ、湯屋谷では永谷宗円によって青製煎茶製法が開発されました。宗円は江戸への販路開拓も成し遂げたため、谷深い地ながら茶農家だけでなく茶問屋も軒を連ねる集落形態が生まれました。茶園は谷沿いの水田脇に設けられた原形というべき茶園景観にはじまり、戦後には大福に大規模な山なり茶園が開かれ、寒暖の差の大きい気候を活かした香りのよい煎茶が生産されています。
 郷之口は、陸上及び水上交通の結節点に発達した茶問屋街で、間口の狭い町家形式を持つ明治以降の茶問屋が建ち並びます。

和束町域石寺、撰原、釜塚、原山、湯船

・集落と茶園の織りなす良好な文化的景観
・伝統的民家に加え茶工場が多く残り、宇治茶の生産集落としての特徴をよく示し、宇治茶の生産集落を代表する地区

 現在、京都府内でもっとも茶生産量が多く、京都府を代表する茶生産地です。鎌倉時代に鷲峰山山麓に茶を栽培したのが始まりと言われ、16世紀後期には、原山に茶園を開いた記録や宇治製法が開発されてから約10年後に原山に伝えられたとあるなど、古くからの煎茶産地です。明治以降、集落裏側の山腹を山なりに開墾するなかで一大産地へと展開していきました。

 湯船は、茶工場は住居施設を2階に付設するなど独特の外観と建築構成を示し、規模も大きく集落景観において重要な位置をしめています。しかも、茶工場に加え、茶畑での農作業に不可欠な雪隠や風呂場、あるいは井戸屋形などが屋敷の周囲に配置されていることも、集落景観を特有のものにしています。

南山城村域童仙房、高尾、田山、今山

明治以降における宇治茶生産の歴史と独特の風土が織りなす文化的景観

 木津川水運を背景に、幕末からの煎茶の輸出を契機として、茶園を徐々に拡大してきた生産地です。田山、高尾では、縦畝の茶園景観が際立ちます。山中に山なりに開墾された緩勾配の茶園が点在し、それらを縫うように畝が縦断する様は、宇治茶生産の景観中でも特筆すべき眺めです。縦畝は乗用型摘採機の導入にも適しており、生産の合理化と伝統的な景観とが両立してもいます。
 また、童仙房は標高500mの山間の平坦地に明治初期に開墾された集落で、水田と山なり茶園が対をなす、素朴な景観が残ります。
 昭和44年の高山ダム建設に伴い造成された今山では、他の地区には見られない平坦な露地茶園が広がります。

木津川市域上狛

自然、歴史、生業に特徴的な要素を備える文化的景観

 木津川水運を利用した交通の結節点である地の利を活かした茶問屋街が形成されています。綿業を商っていた家々が、幕末からの煎茶の輸出拡大にともない、順次茶問屋へと転換し、発展したもので、奈良街道に沿って広い間口を有する茶問屋が建ち並ぶ通り景観を見せます。 現存する茶問屋の建物は、幕末建設のものから、販路が国内向けとなった大正、昭和初期に建設されたものまで多様に残ります。広い間口を活かして長屋門を構え、中央の庭を茶工場と主屋が囲む、 明治以降に発展した茶問屋らしい合理的な配置をみせます。

八幡市域上津屋、野尻、岩田

木津川河川敷に寒冷紗を備える覆下茶園と流れ橋が特徴的ある文化的景観を見せる。

 八幡市と城陽市境を流れる木津川沿いに茶園が広がります。木津河川敷は砂地であり、砂地での茶栽培は、抹茶の原料となるてん茶の栽培に適しているとされ、古くから巨椋池の周辺で広がっていました。八幡市でも主にてん茶の栽培がされており、流れ橋の上下流に広がる上津屋・野尻・岩田地区の覆下茶園は、特にその景観をよく表しています。