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宇治田原町

宇治田原町域の宇治茶の生産景観

宇治田原町域は「宇治製法(青製煎茶製法)」が生み出され、日本全国に広まる起源となった、煎茶生産史上最重要の技術革新と販路拡大がなされた地域である。数多くの谷筋からなる自然条件を活かした茶園や集落の景観に、生産と流通の歴史が刻まれている。

○奥山田

地理

宇治田原町を東西に横切る信楽街道の東端に位置し、北流する奥山田川と大福川が作り出す谷筋に立地する山村集落である。標高の高さと細い谷筋の地形を活かした茶生産が行われている。

歴史

山城から近江に抜ける主要な交通路であった信楽街道沿いの集落で、天神社や正寿院、遍照院等の数多くの寺社が今に残る。かつては石灰岩の採掘と石灰の精製が行われており、石積みの窯跡が残されている。湯屋谷との間に位置する大福谷は宇治田原における茶栽培発祥の地とされ、江戸時代前期までには茶栽培が開始されている。

景観

大福谷には細い谷筋の奥に水田とともに茶園が開かれており、山林によって遮光された天然の覆下のような環境が作り出され、宇治茶の茶園の原形というべき景観が残されている。各谷筋に集落、水田と茶園が開かれ、寒暖の差の大きい気候を活かした香りの良い煎茶が生産されている。

急斜面の集団茶園

○湯屋谷

地理

信楽街道が山間に分け入る位置にある茶業集落で、塩谷、中谷、西谷、石詰等の複数に分かれる谷筋に集落と茶園が開かれる。中生代には海底だった場所で、「綴喜層群」の地層が露出し、貝類の化石を産出する。またかつては温泉が湧いて湯場が開かれており、現在も鉱泉が湧いている。

歴史

和銅2年(709)に湧いたとされる温泉により湯場が開かれ、集落の起源となった。江戸時代中期に湯屋谷の永谷宗円が「宇治製法(青製煎茶製法)」を開発したと伝えられ、永谷宗円の生家跡や宗円を祀る茶宗明神社がある。

景観

狭い谷筋に高い石垣を築いてそそり立つ茶農家や茶問屋の建物が並ぶ特徴的な集落景観を見せる。茶園は谷奥や山間に散在する他、戦後に大規模な集団茶園が開拓され、丘陵の地形を活かした横畝の山なり茶園を形成している。奥山田の大福谷茶園は湯屋谷の茶農家が耕作し、防霜ファンを用いない茶園を守っている。

大福谷の茶園

○郷之口

地理

宇治田原町を東西に流れる田原川に沿って広がる平地に立地する集落で、宇治田原への西の入口に位置する。集落は山口城の城下町に由来し、東西に通る信楽街道を取り込んで面的に展開する。

歴史

織田信長の命により山口甚介秀康が築いた山口城の城下町として整備された。関ヶ原の戦い以降に廃城となり、元和9年(1623)に禁裏新御料所となった。以降は商家や茶問屋が集積する宇治田原の中心集落として栄えた。

景観

信楽街道と平行する複数の街路に沿って面的に形成される集落である。短冊状に割られた敷地に広い軒下空間を持つ茶問屋等の町家が並び、かつての物流の様子をうかがわせる街路景観を見せる。近隣の南地域や立川地域の水田では冬場に柿を干すための「柿屋」が建てられる。

郷之口の茶問屋